宮本茂
宮本茂
【みやもとしげる】
- ご存知、任天堂にこの人アリと言われる天才クリエイター。マリオやゼルダの生みの親。
- 子供の頃から絵や漫画を描くのが好きで、のちに工業デザイナーを志すようになる。
- 金沢美術工芸大学で工業デザインを専攻。卒業すれば当然就職しなければならず、当時花札やトランプを作っているかと思えばコピー機も
作っていたりと「得体の知れない」任天堂に興味を持ったが、デザイナーは募集していなかった。ところが宮本の父は、当時任天堂社長で
あった山内溥と友人で、そのために特別に面接の場を設けられ、入社する(1977年)。ある意味ではコネ入社と言えなくもない?
- 氏が最初にゲームに携わったのは「スペースフィーバー」。ゲームデザイナーを務めた上村雅之は絵が描けなかったため、宮本がキャラクターの
デザインを行った。入社してから工業デザインの仕事はまったく来なかったが、氏が得意とした絵がここで活きた。
- ある日、宮本は横井軍平から「いっしょにポパイのゲームを作ろう」と誘われた。しかし製作中にポパイの版権が取れないことになり、急遽
宮本がキャラクターを書き直して完成に漕ぎ着けたのが、「ドンキーコング」と呼ばれるゲームであった。
- この「ドンキーコング」で宮本は様々なアイディアを出し、プロクラム以外のすべての部分に何らかの形でタッチしているという。宮本の
天才的なアイディアマンとしての才能はこの時点で既に発揮されていたのだ。結果的に「ドンキーコング」は大きなヒットとなる。
- 1984年、「ドンキーコング」の実績は山内社長の目にとまり、宮本は情報開発部の開発課長に就任。ゲーム開発の中心となる。
- その後、「マリオブラザーズ」「デビルワールド」「エキサイトバイク」「スパルタンX」などのディレクションを担当。そして1985年9月13日、
彼の地位と名声を不動のものにする「スーパーマリオブラザーズ」が発売される。
- その後は「ゼルダの伝説」「スーパーマリオブラザーズ2」「スーパーマリオブラザーズ3」でディレクターを担当。以降はプロデューサーや
スーパーバイザーといった立場となり、部下の作ったゲームに厳しいチェックを入れている。それは「宮本チェック」「ちゃぶ台返し」と
呼ばれ、恐れられている。
- 万人向けの、誰もが遊べる(マニアックでない)作風が持ち味。これには幼少の頃に好きだった漫画や、自分の身体で自然の中を駆け回った
「ゲーム以外の経験」が活きており、後進の指導においてもそういったものが大事であると説いている。
- ソフトだけでなくハードの開発にも携わる。スーパーファミコンのLRボタンや、NINTENDO64のアナログスティックは宮本が出したアイディアが
もとになったものである。これらは後に他社製のゲーム機にも当然のように付けられているわけで、そういう部分においても氏がゲーム界に
与えた影響はもはや計り知れないものがある。
- ゲーム業界人はもちろん、非業界人の有名人にも宮本をリスペクトする者は多い。ポール・マッカートニーが来日した際、息子が宮本のファンで
あったことからコンサートや食事に招待され、普通はポールがサインを求められる側なのだがこのときは宮本がサインを贈っている。また、
マイケル・ジャクソンも宮本のゲームのファンだったらしい。
- ゲームの発表会では国内海外を問わず、ひとたび宮本が現れると周囲を業界人やメディアが取り囲み、挨拶や雑談、取材などをする。そのため、
数時間経過しても宮本自身は数メートルも進めていないということもしばしばあるとか。
- 1996年に情報開発部長、1998年には情報開発本部長に就任。2000年6月には取締役、2002年5月に代表取締役専務に就任した。取締役ともなると
開発現場からは遠ざかり、その他の仕事に多くの時間を割くことになった。しかし、2002年6月に任天堂の社長に就任した岩田聡は宮本を
「可能な限り開発の現場にいるべきだ」とし、彼が社内開発業務に可能な限り関わることのできる体制に改めた。
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- 最終更新:2010-11-01 22:36:58